暇と退屈の倫理学(未完)
「暇と退屈の倫理学 増補新版」國分 功一郎 http://amzn.asia/aSRMxw9
- 序章:「好きなこと」とは何か?
- 豊かさが不幸を生む
- 人類は豊かさを目指してきたが、豊かさが達成されると逆に不幸になるという逆説(ラッセル)
- なぜ豊かさを喜べないのか?
- 豊かさとは
- 国や社会が豊かになれば金銭的余裕・時間的余裕が生まれる
- その余裕を何に使っているか?
- 富むまでは願いつつも叶わなかった自分の「好きなこと」をしていると答えるだろう
- その「好きなこと」とは何か?
- 生産者が消費者に「あなたが欲しいのはこれなんですよ」と語りかけ、それを買わせるようにしている(ガルブレイス)
- その「好きなこと」は願いつつも叶わなかったことではない
- そもそも私たちは、余裕を得た暁に叶えたい何かなどもっていたのか?
- 文化産業が支配的な現代においては、消費者の感性そのものがあらかじめ制作プロダクションのうちに先取りされている(アドルノ・ホルクハイマー)
- 人間に期待されていた主体性(カント)は、人間によってではなく、産業によってあらかじめ準備されるようになった
- 産業はあらかじめ受け取られ方の決められたものを主体に差し向けている
- 労働者の暇が搾取されている
- なぜ暇は搾取されるのか?
- 人は退屈することを嫌うから
- 暇の中でいかに生きるべきか?退屈とどう向き合うべきか?(本書の問い)
- 革命が到来すれば、私たちは自由と暇を得る。その時に大切なのは、その生活をどうやって飾るかだ(モリス)
- 近代は様々な価値観を相対化してきた
- 「生命ほど尊いものはない」という原理しか提出できなかった
- 「打ち込む」こと、「没頭する」ことを渇望する
- 第1章:暇と退屈の原理論 ー ウサギ狩りに行く人は本当は何が欲しいのか?
- 暇と退屈の原理的な考察:パスカルの気晴らしに関する議論を出発点として
- 人間の不幸の原因:ミゼール(パスカル)
- 人間の不幸などというものは、どれも人間が部屋にじっとしていられないがために起こる《この原理は第2章で自然に導かれる》
- 部屋でじっとしていればいいのに、そうできない
- そのためにわざわざ自分で不幸を招いている
- ウサギ狩りに行く人はウサギが欲しいのではない
- 人々は自分が追い求めるものの中に本当に幸福があると思い込んでいる
- 欲望の原因と欲望の対象
- 欲望の対象:何かをしたい、何かが欲しいと思っているその気持ちが向かう先(ウサギ)
- 欲望の原因:何かをしたい、何かが欲しいと思っているその欲望を人の中に引き起こすもの(気晴らしが欲しい)
- 熱中できること、自分を騙すこと
- 人は自分が<欲望の対象>を<欲望の原因>と取り違えているという事実に思い至りたくない
- そのために熱中できる騒ぎを求める
- パスカルの解決策
- 神への信仰
- 「神なき人間のみじめ」「神と共にある人間の幸福」
- 苦しみを求める人間
- 愚かな気晴らしにとって重要なのは、熱中できること
- 熱中するためには負の要素(苦しみ)が必要
- 退屈する人間は苦しみや負荷を求める
- ニーチェと退屈
- 19世紀のヨーロッパの若者:「何としてでも苦しみたいという欲望」を持っている
- そうした苦しみの中から、自分が行動を起こすためのもっともらしい理由を引き出したい
- ファシズムと退屈ーレオ・シュトラウスの分析
- 第一次世界大戦での大殺戮により、近代文明は根本的に間違っていたのではないかという疑問が広がった
- 近代文明を信じていた親たちは、近代文明でもう全てが終わっているかのように語っている
- 共産主義者たちは今度来る革命で全てが終わると語る
- どちらを信奉しようと若者にやるべきことはない
- 彼ら若者にとって、極度の負荷がかかった状態を生きること、苦しさを耐えて生き延びること、それこそが生であった
- 苦しみたいという欲望→ファシズムの台頭
- まとめ
- 人間は部屋でじっとしていられない
- だから熱中できる気晴らしを求める
- 熱中するためであれば苦しむことも厭わない(積極的に苦しみを求めることすらある)
- 注目すべき退屈論その1:ラッセルの『幸福論』(積極的な答え)
- 幸福である中の不幸
- 現代人の不幸:「食と住を確保できるだけの収入」と「日常の身体活動ができるほどの健康」を持ち合わせている人を襲う日常的な不幸
- 原因がわからない
- 逃れようにも逃れられない
- 独特の耐え難さ
- 犬猿の仲のハイデッガーも同様の考察
- 退屈の反対は快楽ではない
- 退屈とは、「事件が起こることを望む気持ちがくじかれたもの」である
- 「事件」とは、今日を昨日から区別してくれるもの
- 事件の内容はどうでもよい(不幸な事件でも悲惨な事件でも良い)
- 退屈の反対は快楽ではなく、興奮である
- 退屈している人間が求めるのは楽しいことではなく、興奮できること(不幸であっても構わない)
- 人は楽しいことなど求めていない
- 人は楽しいことなど求めていない
- 求めているのは自分を興奮させてくれる事件
- 快楽や楽しさを求めることがいかに困難か
- 幸福な人とは楽しみや快楽を求めることができる人(楽しみや快楽をすでに得ている人ではなく)
- 問題は、いかにして楽しみや快楽を得るかではなく、いかに楽しみや快楽を求めることができるようになるか
- 熱意?
- 幸福であるとは、熱意を持った生活を送れることだ
- 幸福には二種類ある
- 幸福1:どんな人間にも得られる、地味なもの、動物的なもの、感情的なもの
- 幸福2:読み書きのできる人間にしか得られない、凝ったもの、精神的なもの、知的なもの
- ラッセルの結論
- 熱意を持って取り組める活動が得られれば幸福になれる
- その活動はどんなものでも構わない
- 興味をできる限り幅広くする
- 興味を引く人や物に対する反応を敵意あるものではなく、できる限り友好的なものにする
- ラッセルの結論の問題点
- 興味を引く人やものがいったい何なのか、どこにあるのか分からない
- そうやって右往左往する人々に対して気晴らしのエサを与えて生き延びる現代の文化産業の問題はどうなるのか
- 熱意をもって取り組むべきミッションを外側から与えられていることを幸福と呼べるのか(新しい世界を作ることができるという外的条件によりロシアの青年たちは幸福であると言える。不幸に対する憧れを作り出す。)
- 熱意さえ持てれば良いのか
- 何でも良いから熱意が持てる課題を適当に与えてやれば良いということになる
- 本物の熱意とは、忘却を求めない熱意である
- 「熱意」とみなされる現象が、単に現実から目をそらす逃避や忘却のための「熱意」になっている可能性がある
- 人間は部屋にじっとしていられないから、熱中できる気晴らしを求め、欲望の向かう対象(ウサギ)を欲望を引き起こした原因(部屋にじっとしていられない)と勘違いする
- 注目すべき退屈論その2:スヴェンセンの『退屈の小さな哲学』(消極的な答え)
- 退屈が人々の悩み事となったのはロマン主義が原因
- 前近代社会においては、一般に集団的な人生の意味が存在し、それでうまくいっていた(個人の人生の意味を集団があらかじめ準備していた)
- 信仰が強い価値と意味を保持していた時代も同様
- 生の意味が共同体的なものから個人的なものになりロマン主義が登場
- ロマン主義:生の意味は個人が自らの手で獲得すべきと考える
- そんなものは簡単に獲得できない
- ロマン主義者たる私たち現代人は退屈に苦しむ《生の意味を簡単に獲得できないことが退屈につながる?:ロマン主義的退屈は退屈の中の一つの種類に過ぎないというのが、この疑問に対する回答になっているのだろう》
- みんなと同じはいや!
- 啓蒙主義(18世紀):人間は理性的存在として平等であり、平等に扱われねばならない
- 反動としてのロマン主義:個人はそれぞれ違うのであって、理性とかいった言葉で一様に扱ってはならない(むしろ人間の不平等が高く掲げられる)
- 普遍性よりも個性、均質性よりも異質性を重んじる
- スヴェンセンの結論
- ロマン主義と決定的に決別
- 実存の中で個人の意味を見つけるのを諦める
- スヴェンセンの結論の問題点
- 第2章:暇と退屈の系譜学 ー 人間はいつから退屈しているのか?
- 退屈の起源
- 「系譜学」的アプローチ
- 退屈は人間と切り離し難い現象である
- 人間はいったいいつから退屈し始めたのか?
- 退屈はどうやって発生したのだろうか?
- 退屈の起源はどこにあるのだろうか?
- 「系譜学」:いま我々の手元にある現象を切り開いて、その起源を見つける(cf.歴史学)
- 退屈と歴史の尺度
- 一般に、退屈は「近代」と結び付けられてしまっている
- が、退屈を近代から考えると、退屈の理由を社会の側に求めることになってしまう
- 人間の人間性と退屈との関わりを問うことができない
- もっと長いスケールで考える必要がある(人類学的視点:西田正規「定住革命」)
- 西田正規「定住革命」
- 人類と遊動生活
- 遊動生活:移動しながら生きていく生活
- 定住生活:一箇所にとどまり続ける
- 人類は約1万年前に定住生活を始める
- 人類史の視点から見れば、人類が遊動生活を放棄し、定住生活を始めたのはつい最近のこと
- 遊動生活についての偏見
- 一般に、遊動生活を行なっていた人間は、定住をしたくても定住できなかった、と思われがちである
- が、遊動生活者は本当は定住したいのに、仕方なく移動する生活をしていたのではない
- むしろ、人類の肉体的・心理的・社会的能力や行動様式は遊動生活にこそ適している
- だからこそ、何百万年もの間、遊動生活を続けてきた
- 強いられた定住生活
- 現在の我々は定住中心主義とも言える視点から人類史を眺めてしまう
- どうやって定住生活が可能になったか、という視点から人類史を見てしまう
- 人類は、遊動生活を維持することが困難になったために、やむを得ず定住化した
- 定住と食料生産
- 定住には食料生産は必ずしも必要ない
- 食料生産は定住生活の結果であって、原因ではない
- 農業などの技術を獲得したから定住したのではなくて、定住したからその技術が獲得された
- 遊動生活と食料
- 遊動生活者は自然によってもたらされるものを採取して食料を確保する
- 資源には限りがあるので、一箇所にとどまっていては、食料が不足する事態が必ず訪れる
- その場合には、生活の場所を移動する
- 遊動生活を行なっていれば、食料に困ることはない
- むしろ、定住生活を行うと食料に困る
- そのため、何らかの手段で食料を確保しなければならない
- 貯蔵により、食料のない時期にも飢えをしのぐ
- 場所によっては限界があるので、食料生産が促される
- 苦労して食料生産という技術を獲得した
- なぜ一万年前、中緯度帯で定住が始まったのか
- 氷河期から後氷期にかけて起こった気候変動とそれに伴う動植物環境の変化が原因
- 約1万年前、温暖化が進み、中緯度帯が森林化
- 温帯の森林化が進めば、それまで狩っていた有蹄類は減少
- 森林では100m先の獣を見出すことすら困難
- 氷河期の大型獣から比べるといずれも小さな獣で、それまで有効であった槍は使えない
- 手に入れても肉も少ない
- 旧石器時代の大型獣の狩猟に重点を置いた生活は大打撃を受けた
- 狩猟が困難になれば、植物食料か魚類への依存を深める他ない
- 温帯森林環境では、熱帯雨林と異なり、植物性食料の取れる量が季節によって大きく変動する
- 魚類資源も冬場は水域での活動が困難
- この地域で生活を続けるためには、貯蔵が必須の条件となる
- 貯蔵は移動を妨げる
- 定住が余儀なくされる
- 最近1万年間に起こった大きな変化
- 気候変動等の原因によって、人類は長く慣れ親しんだ遊動生活を放棄し、定住することを強いられた
- 定住化は人類の能力や行動様式の全てを新たに編成し直した革命的な出来事
- 実際、定住が始まって以来の一万年の間には、それまでの数百万年とは比べ物にならない程の大きな出来事が数え切れないほど起こっている
- 「定住革命」
- 定住革命の影響
- そうじ革命・ゴミ革命
- 定住生活者は定期的な清掃、ゴミ捨て場やトイレの設置によって環境の汚染を防がねばならない
- 数百万年も遊動生活を行なってきた人類にとって、掃除したり、ゴミ捨て場を作ったり、決められた場所でのみ排便したりといった行動を身につけるのは容易ではなかったはず
- ゴミの分別:意識の外に放り捨てたものを再び意識化することに他ならない
- これらの困難(ゴミの分別・掃除等)が今日にも受け継がれている
- トイレ革命
- 子供のしつけで一番教えるのが大変なのは、トイレで用を足すこと
- 決められた場所で排泄を行うという習慣は、人間にとって少しも自然ではない
- 定住革命はかつて人類が一度だけ体験した革命ではない
- 定住生活を行う個々の人間もまたその人生のなかで定住革命を成し遂げなければならない
- 定住革命は人類史上の出来事であると同時に、定住民がその人生の中で頒布気しなければならない革命である
- 定住革命はいまここでも行われている
- 死者との新しい関わり方
- 墓場の誕生
- 生者と死者の棲み分けの必要
- 死者に対する意識の変化をもたらす
- 死体の近さは死者だけでなく死への想いも強める
- 霊や霊界といった観念の発生につながる:宗教的感情の一要素
- 社会的緊張の解消
- 定住社会では、コミニュティの中で不和や不満が生じても、当事者が簡単にコミニュティを出ていくことができない
- そのため、不和や不満を蓄積して行く可能性が高い
- 不和が激し争いになるのを避けるために、様々な手段を発展させる必要
- 権利や義務の規定が発展
- 争いが起こった後の調停での決定内容を当事者に納得させるための拘束力:権威の体系が生まれる
- 社会的平等の発生
- 定住生活は食料の貯蔵を前提としている
- 私有財産という考え方を生む
- 貯蔵は貯蔵量の差を生む
- 経済格差が生まれる
- 経済格差は権力関係をもたらす(自らの財を用いて人を雇用できるようになる)
- 盗みなどの犯罪も発生する
- 法体系が必要になる
- 退屈を回避する必要
- 遊動生活では移動のたびに新しい環境に適応しなければならない
- その過程で、人の持つ優れた探索能力は強く活性化され、十分に働くことができる
- が、定住者がいつも見る変わらぬ風景は、感覚を刺激する力を次第に失っていく
- 人間はその優れた探索能力を発揮する場面を失っていく
- 定住者は行き場をなくした己の探索能力を集中させ、大脳に適度な負荷をもたらす別の場面を求めなければならない《この推論は自明か?:大脳への負荷を求めなければならないというより、自分の能力に余裕が出ることこそが退屈そのものである》
- 退屈を回避する場面を用意することは、定住生活を維持する重要な条件である
- その後の人類史の異質な展開をもたらす原動力をして働いてきた:「文明」の発生
- 負荷がもたらす快適さ
- 遊動生活がもたらす負荷こそは、人類のもつ潜在的能力にとって心地よいものであったはず
- 自分の肉体的・心理的能力を存分に発揮することは強い充実感をもたらすはず
- 定住生活では、かつての遊動生活では十分に発揮されていた人間の能力は行き場を失う
- もっといろいろなことできるはずなのにすることがない、自分の能力を十分に発揮することができない:退屈!
- 退屈を紛らせる必要が、人類にとって恒常的な課題として現れる
- <暇と退屈の倫理学>という一万年来の課題
- 定住革命は退屈を回避する必要を与えた
- 定住民は自らの手で、退屈を回避するという定住革命を成し遂げなけれならない
- ゴミやトイレと違い、退屈については決定たくな解決策が見出されていない
- 人間の不幸の原因である部屋の中に静かに休んでいられない(パスカル)というのは当然